人生の目的を幸福だと決めつけるな!

                                                    <h2>人はなぜ生きるのか</h2><p>人はなぜ生きるのか。</p><p>&nbsp;</p><p>このような質問は知恵袋でも多く見受けられます。そして、その回答に挙げられるのはたいてい「目的など無い」といったものか、或いは「<strong>幸福</strong>になるため」というものが多いかと思います。特に後者の回答の多くは、その回答者が何らかの宗教団体に入信していて、そこで得た知識を根幹として「幸福になるため」の方法を書き込んでいるように見受けられます。</p><p>また、過去にヒルティやラッセル、アランなどが、幸福ひいては人生そのものについての考察・ 論究を記してきた「幸福論」なる書籍の影響からも、「幸福になるため」という回答には理論的重みを持つものとされています。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし私にはどうしても納得がいきません。</p><p>人はなぜ生きるのか。すなわち<strong>人生の目的</strong>について、恥ずかしながら私なりの考察・論究を聞いてください。</p><p>&nbsp;</p><h2>宗教に対する見方の変化</h2><p><span><span>現代において「宗教」は、伝統的な面では趣深いと評価されつつも常に身近に関わる存在では無い為か、異端とも思える新宗教・新興宗教などには因習的な見方も存在します。この新宗教・新興宗教団体は、本来の純粋な仏教やキリスト教の概念にプラスして、<strong>人生の目的</strong>なるものを定義しだすようになってきました。彼らの勧誘対象に対するこの定義に沿った<strong>人生の目的</strong>への導き方は実に巧妙で、今もなおカルト問題における被害者は増加し続けています。今回、その勧誘への対処の意味も含め、仮に<strong>人生の目的</strong>があるとして、それがどのような状況の上で成り立つものなのかを検証していきたいと思います。</span></span></p><p><span><span></span></span>&nbsp;</p><span><span><h2>一般的な人生の目的の考え方</h2><p><font size="3"></font>&nbsp;</p><p><span>「<strong>人生の目的</strong>とは何か」と問われれば、多くの人は返答に窮します。そして一考ののち自分が将来なりたいもの、例えば「実業家」「パイロット」「デザイナー」「音楽家」などの職業や趣味を挙げるでしょう。しかしこれらの回答は、目的と手段を混合しているものなのです。このような志望は、その<strong>人生の目的</strong>を達する為の手段あるいは条件に過ぎないのです。</span></p><p>&nbsp;</p><span><p><span>そのように考えた上で導き出せるのは<font color="#ff0000">幸福</font>という概念でしょう。人は<u><font color="#ff0000">幸福</font>と<font color="#0000ff">不幸</font>の選択肢</u>を与えられた時、間違いなく<font color="#ff0000">幸福</font>を選びます。また、上記のような「~になりたい」等の志望を抱くのも<font color="#000000">幸福</font>を目指すが故の回答として見受けられます。かく見れば、まさに<font color="#000000">幸福</font>こそ万人共通で普遍的な<strong>人生の目的</strong>であるかのように見えてしまうのです。しかしながらこれらの《欲しいもの》が努力によって手に入った時に本当に満たされた感のある幸福にはとうとうなれず、また一時なれたとしてもそれは災いや病、飽き、寿命</span><span>(</span><span>死</span><span>)<font>などによって脆く壊れやすい為、不完全なものとしてあらわされてしまいました。</font></span></p><span><p><font size="3"><br></font></p><p><span>こうして<strong>人生の目的</strong>を真の幸福だと確信し、決めつけてしまった人間はやがて永久に崩れない完全なる幸福を求める上で、宗教がそのためにあるものだと結論づけてしまいました。過去の純粋な仏教やキリスト教は、その中での「涅槃」や「極楽浄土」、「功徳」、「解脱」、「天国」、「神の国」などの概念と重なり、新宗教・新興宗教が生まれていく中で、まさにそれが幸福を象徴させるものへ行きつかせる手段のものと変化してしまったのです。ただ、大事なのは過去にこのような仏教やキリスト教が発展していく最中でも、他に様々な宗教は存在し、そしてその傍らで衰退化していったものも多いというのも事実だということです。つまり、<strong>人生の目的</strong>が幸福のものばかりに注目するではなく、そうではない灯台下暗しのものにも目を光らせてほしいという事です。</span><span><!--?xml:namespace prefix = "o" /--></span></p><p><font size="3"></font>&nbsp;</p><h2><font color="#ff0000">幸福</font>を見直す</h2></span><p><span>私は、そんな宗教という学問をこれから学んでいくための、根幹とも言えるこの<strong>人生の目的</strong>において、それを<font color="#ff0000">幸福</font>だと決定づけるのに納得できない点がいくつかあります。</span></p><p><span></span>&nbsp;</p><h3><span><font color="#ff0000">幸福</font>の意味</span></h3><span><span><p>まずは、「幸福」という単語の意味をもう一度理解しなおしてみましょう。辞書によっては異なる見解もあるでしょうが、私が持っている大辞泉にはこう記されています。<font size="3"><br></font></p><p><font size="3"><br></font></p><p><span>「満ち足りていること。不平や不満がなく、たのしいこと。また、そのさま。しあわせ。」</span></p><p><span></span>&nbsp;</p><p><span>簡潔に言えば「満ち足りているさま」という事になりますね。という事は、この「満ち足りている」状態を作る以前には「全く満ち足りていない」空っぽの状態が存在するはずなのです。即ち「全く満ち足りていない」状態での目的というのは『満ち足りさせるべき何か』であってもいいのではないかという事です。</span></p><p><span></span>&nbsp;</p><p><font size="3"><span></span></font>特に、我々の知っている元々の幸福は満ち足りた状態をキープできない存在です。小さな穴の開いたグラスを想像するといいでしょう。このグラスは最初から穴が開いている為&nbsp;、用途的にはまず「溜める」為に存在するのではないと考えることが出来ます。ということは「満たされて流れていく」為か、もしくは「濡らす」為に存在すると考えられますね。仮に「濡らす」為であれば、『満ち足りさせるべき何か』を作り出し、そのグラスに注ぐだけでいいのです。</p><p><font size="3"><span><span></span></span></font>&nbsp;</p><p><font size="3"><span><span></span></span></font>&nbsp;</p><font size="3"><span><span><h3>目的は選択しない</h3></span></span></font></span><p><span>次に、<font color="#ff0000">幸福</font>と<font color="#0000ff">不幸</font>という選択肢から選択して導かれるものが果たして目的なのかという問題があります。</span></p><p><span>そもそも目的の地というものは、通常そこに選択肢などは存在せず、唯一無二でなければいけません。自分の今の状態をスタート地点とした場合、実際に到着するゴール地点は一つしかないからです。目的の地とは選択肢が出ている段階ではまだ真に目的の地ではなく、<strong>人生の目的</strong>という意味では何の選択肢も無い唯一無二のそれが初見で存在してやっと目的の地と結論付けることができるものです。「大学未合格」からの「大学合格」、「資格未取得」からの「資格取得」、「空腹」からの「満腹」、「生」からの「死」、などがその例であり、ともに今の時点からの目的に選択肢は無く、唯一無二の地がそれとなっています。更にこういった「</span><span>A</span><span>からの</span><span>B</span><span>」という関係において、</span><span>A</span><span>と</span><span>B<font>はそれぞれ対義語や反対語の形をとりやすくなっています。</font></span></p><span><p><font size="3"></font>&nbsp;</p><p><span></span>&nbsp;</p><p><span>さて、これを一般的な宗教での概念で捉えると<font color="#ff0000">幸福</font>という唯一無二の目的を達成する今の私の状態は、その反対語である<font color="#0000ff">不幸</font>という事になってしまいます。<font color="#0000ff">不幸</font>が確定的な通常の状態だとするのであれば仕方ありません、もはや目的は<font color="#ff0000">幸福</font>と結論付けてしまうしかないですね。しかし、貴方はこの人生で一瞬たりとも幸福ではないと感じ、今の今まで不幸を自覚し続けて過ごしてきたでしょうか。貴方が感じていたのはせいぜい、今得ている幸福が長続きしないという感情のみではないでしょうか。</span></p><p><span>&nbsp;<img itemprop="image" alt="人生の目的図解1.png" src="https://iwiz-chie.c.yimg.jp/im_siggHQIdw1hcixZbjEO1Phs6ng---exp5m-n1/d/iwiz-chie/note-170442-i1-________.png"></span></p><p><span></span>&nbsp;</p><span><h3>目的は無自覚でもよい</h3><p><span>また、貴方自身がこの世に誕生した時は間違いなく「無」でした。そこでは言葉を把握する能力もなければ、目に映るものが何であるかも理解出来ない状態からスタートしたのです。この分では、この身の生前や生まれた瞬間に第三者に目的を告げられたとしても、それを理解することはできません。幸福という目的があったとしても、それを知るのはせいぜい物心がついた頃でしょう。そうなれば周りに何もない空間で育ったり、知能が発達できない体で生まれてしまった場合も含め、その目的を自覚する時が来るまでの期間がおのずと無駄になってしまいます。これでは、その期間に何かあって目的が達成されないまま死んでしまうなどという、無駄死にならぬ「無駄生まれ」が起きてしまう場合があります。これでは人生の目的、即ち人間の生きる目的という意味では不平等性が生まれてしまうのではないでしょうか。</span><span></span></p><p><font size="3"><br><br></font></p><p><span>そうなると、もう一つの可能性として考えられるのが、生まれたその時から無意識に、無自覚に人生の目的を達成しているというものがあります。無論それは、無自覚の頃からの作業ですので、知性を要する人間だけでなく、知性とは無縁のこの地球に生きる様々な動物すべてに可能ということになるでしょう。考えてみれば、<strong>人生の目的</strong>を<font color="#ff0000">幸福</font>とした宗教は、題目や聖書などの<strong><em>文書読解力</em></strong>に加え、日本人なら日本語という<em><strong>言語能力</strong></em>、物事の欲望を控える<em><strong>理性</strong></em>、神仏に対する<strong><em>信仰心</em></strong>などと<u>どれをとっても人間のみに存在する知性あってのものばかり</u>です。これでは、生命体を<strong>差別</strong>して人間だけが苦しみから解かれるという非道極まりない状況を作ってしまいます。一般的な哲学者、宗教入信者はどうしてこの不自然さに気づけないのかが非常に不可思議で仕方がありません。</span><span></span></p><p><font size="3"><br><br></font></p><p>&nbsp;</p><span><p>このように<strong>生命体差別</strong>を考慮に入れたとき、<strong>人生の目的</strong>は生まれながらにして無意識に、無自覚に達成しているものであってもいいと考えられるのです。また、今の生活空間以上に人間的な何かしらの努力をして得るものが<strong>人生の目的</strong>である必要もないのではないでしょうか。</p><font size="3"><p><br><br>&nbsp;</p><p class="point"><br>&nbsp;</p><p class="hint">ヒント</p><ul><li>人間のみに適用され、他の生命体に適用されない幸福が基幹の宗教は、真の意味では普遍的とはいえない。</li></ul><p class="point"><br>&nbsp;</p><p class="point">&nbsp;</p></font><p class="point">&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p><font size="3"><br></font></p><p><span>これらの事を見直し、真に「人生の目的」に相応しい言葉を考えていきます。</span></p></span><p>&nbsp;</p></span></span><span><p>&nbsp;</p><h2>&nbsp;目的を達成する者の状態を考える</h2><p>&nbsp;</p><p><span>真に<strong>人生の目的</strong>に相応しい言葉を見つける為にはまず、その人生の目的を達成する者が一体どのような状態にあるか、どのような状態からその何らかの目的にベクトルが向けられているかを理解しなければなりません。前述のとおり、幸福が目的であるならばその反対語である不幸が我々の通常の状態でなければなりません。しかしながら我々は今、そうとも言い切れない状態を保っています。フランスの作家、ロマン・ロラン氏もこのような状況に対し以下のような名言を残しています。</span><span></span></p><p><font size="3"><br><br></font></p><p><span>「人はおおむね自分で思うほどには幸福でも不幸でもない。肝心なのは望んだり生きたりする事に飽きない事だ。」</span><span></span></p><p><font size="3"><br><br></font></p><p><span>そう、我々の通常の状態は、おおむね幸福とも不幸とも言えない何とも微妙で中途半端な自分を保っているのです。幸福とも不幸とも言えない状態がベースになっているのですから、当然<strong>人生の目的</strong>に相応しい言葉も幸福や不幸の尺度で測れるものではありません。まずはその通常の状態を、幸福や不幸以外の言葉で表す必要があります。</span></p><p><span></span>&nbsp;</p><span><p>&nbsp;&nbsp;&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><h3>通常の状態とは<br></h3></span><p><font size="3"><br></font><span>通常の状態を言葉で表すというのは一見して分かりにくいものかもしれません。ただ、通常の状態がそうでなくなる時に起こる事例を考えれば案外見えてくるかと思います。そんな時に関わってくるものといえば当然<font color="#000000"><strong>「五感」</strong></font>もしくは<strong>「外的刺激」</strong>ではないでしょうか。例えば、痛くない状態で皮膚をつねられて痛い状態になったり、辛くない状態で辛い食べ物を食べて辛くなったり、眩しくない状態でライトの光が目に入って眩しくなったりといった外的刺激による状況の移り変わりが、通常の状態をそうでない状態に仕立てるでしょう。</span><span></span></p><p><font size="3"><br><br></font></p><p><span>すなわち、痛い、辛い、眩しいといった刺激が無い状態が通常の状態なのですから、言うなれば<strong>無刺激</strong>という言葉で表すことができますね。ただ、人間はその移り変わりに感情が伴います。痛い事が速やかに不幸というわけではないし、場合によっては幸福にも感じられます。辛さや眩しさもそのたぐいです。つまり、我々の通常の状態を表す言葉は、<u>外的刺激と同時に感情が動く事がワンセットされたもの</u>が起きていないという意味から、<strong><font color="#339966">無感動</font></strong>が一番合うのではないでしょうか。</span><span></span></p><p><font size="3"><br><br></font></p><p>&nbsp;</p><span><p>どうでしょう。<font color="#339966">無感動</font>が我々の通常の状態とするならば、当然そのベクトルの先は<font color="#ff9900">感動</font>でしかありません。よって、<strong>人生の目的</strong>は<font color="#ff9900"><strong>感動</strong></font>であると考えられるのです。ともすれば、前述のロマン・ロラン氏の名言の後半でも「感動」を意味させるような記述もありましたよね。</p><p>&nbsp;<img alt="3人生の目的図解.png" src="https://iwiz-chie.c.yimg.jp/im_sigg_OWD7HRQ9ILL_AwGvszBKQ---exp5m-n1/d/iwiz-chie/note-170442-i2-________.png"></p></span><p>&nbsp;</p><p><br>&nbsp;</p><p class="hint">ヒント</p><ul><li>ロマン・ロラン氏の後半の言葉「肝心なのは望んだり生きたりする事に飽きない事だ。」において、「感動」に相当すると思われるのは「飽きない事」である。飽きないようにするというのは即ち「感動を目的に生きる事」とも言い換えられる。</li></ul><p><br>&nbsp;</p></span><p>&nbsp;</p><h2><font color="#ff9900">感動</font>を見直す</h2><p><font size="3"><br><br></font><span><strong>人生の目的</strong>を<font color="#ff9900">感動</font>とした時の見方はこのようになります。</span></p><p><span></span>&nbsp;</p><span><p>&nbsp;</p><h3><font color="#ff9900">感動</font>は脆く壊れやすい</h3><p><font size="3"><br></font>&nbsp;</p><p><span>前述で、不完全な幸福は脆く壊れやすいと言いましたが、感動もまた脆く壊れやすいものです。しかし、我々の目的はすでに<font color="#ff0000">幸福</font>ではなく<font color="#ff9900">感動</font>なのですから、そのままより沢山の感動を得ていいのです。要するに、脆く壊れやすいものであるからこそ次にまた新たな感動を探すことができ、かつ飽きる事もできるそれであるからまた我々は新たな感動を手に入れたくなるのです。当然ながら感動を目的に生きる為の設備がすでに整えられた世界に我々は生まれてきているのです。</span><span></span></p><p><font size="3"><br><br></font></p><p><span>「飽きる」と言えば、一般的な概念である幸福に加え、不幸もまた飽きる対象になっています。近親の死などは最初はとても深い悲しみを感じますが、日を追うごとにやはり慣れて飽きていくものです。目的は、脆く壊れやすく、かつ飽きやすくなっているその状態がまさに完全体なのです。そのため、それを超えるものを得るためにまた新たに何かを学ぼうなんてことは必要ないのである。</span><span></span></p><p><font size="3"><br><br></font></p></span><h3><font color="#ff9900">感動</font>は諸行無常とリンクする</h3></span><p><font size="3"><br><br></font><span>ここでの<strong><font color="#ff9900">感動</font></strong>は、一方で</span><span><font>”</font></span><span><u>外的刺激による心の変化</u></span><span><font>”</font></span><span>を意味しています。それが<strong>人生の目的</strong>という事は即ち心は常に変化を求めているという事になります。我々は、窓ガラスの外に美味しそうな食べ物が沢山あるという事を知りながら毎食「白飯と水のみ」を死ぬまで続けていかなければならなかったり、星ひとつ無い宇宙の中を滅することなく永久に浮き続けたりしなければならないといった同じような状態が常に続く環境に耐えることにはとても苦痛になりやすくできています。それは言うなれば随時、人間は何かしらの変化を無意識に望んで生きているということです。</span><span></span></p><p><font size="3"><br><br></font></p><p><span>このような人間の心に、並行して存在する現象として<strong>諸行無常</strong>があります。諸行無常とは「仏教の根本主張である三法印の一。世の中の一切のものは常に変化し生滅して、永久不変なものはないということ。」</span><span><font>(</font></span><span>大辞泉より</span><span><font>)です</font></span><span>。要するにこの世のすべてが変化していくものであるという概念ですね。ということは、我々の<font color="#ff9900">感動</font>を求める形態を<u>『需要』</u>と言い換えたならば、まさに<strong>諸行無常</strong>はその需要に対する<u>『供給』</u>となっているのです。この『需要供給の関係』は果たして偶然なのでしょうか。</span></p><p><span></span><span></span>&nbsp;</p><p></p><font size="3"><p><br></p><p class="point">ポイント</p><ul><li>ここでの感動は、幸福や不幸に関わらない前段階でのベクトルであるため、幸福や不幸の意味を持たない、もしくはそれらを包括した意味で<span><font>”</font></span><span><u>外的刺激による心の変化</u></span><span><font>”と記している。よって、この感動は心の衝動のみを表し、プラスとマイナスの両方の要因を兼ねる。</font></span></li></ul><p><span></span>&nbsp;</p><p><br><br></p></font><p></p><h3><font color="#ff9900">感動</font>は生命体平等<br></h3></span><p><font size="3"><br></font><span><font color="#ff9900">感動</font>は、人間のみにおける知性を扱う幸福の概念とは異なり、第三者に教わることなく無意識に、無自覚に達成することのできる<strong>人生の目的</strong>です。よって人間に及ばず地球上、もとい恐らくは全宇宙の生命体に対して可能な目的とも言えるでしょう。人間なら誰もが、生まれたその瞬間からその世界の空気を感じること、眩しい太陽や電球の光を感じること、母親の温かな体温を感じて心を動かすことなどが出来ます。もし私が創造主として多種多様な<font color="#ff9900">感動</font>を供給する新世界を創造するならば、生き物も様々な形のものを用意して、またその生き物一つにしても様々な個性やモノの見方・考え方を持たせ、半永久的に供給を可能にするために生殖機能を持たせるでしょう。まさに、今の世界がそれを象徴させているように感じますね。</span></p><p><span></span>&nbsp;</p><span><p>&nbsp;<br><br></p><p><br>&nbsp;</p><p><br></p><p>&nbsp;</p><h2><font color="#ff9900">感動</font>目線から見た<font color="#ff0000">幸福</font>と<font color="#0000ff">不幸</font></h2><p><font size="3"><br></font>&nbsp;</p><p><span>しかしながら、幸福の存在と不幸の存在は認めないわけにはいきません。我々は間違いなく、喜ばしい事があれば幸福感を抱きますし、悲しい出来事があれば不幸感を抱きます。それは曲げられない事実ですよね。では、そのような幸福や不幸はどうしておこるのでしょうか。</span></p><p><span></span>&nbsp;</p><span><p>&nbsp;</p><h3><font color="#ff0000">幸福</font>は満杯を知るサイン</h3><p><font size="3"><br></font>&nbsp;</p><p><span>前述で、幸福の意味を「満ち足りているさま」と記しましたが、"心の衝動"という「五感」では決して把握することのできないものをどうして「『満ち足りさせるべき何か』がようやく満ち足りた」と認識することができるのでしょうか。例えば、床に固定したグラスに水道から水を注ぐにしても、目隠しされたままでは満杯になるタイミングがいつなのか、なかなかわかりませんよね。そこで、グラスの縁に人差し指を沿えてみます。すると、流れる水の冷たさが肌を通して伝わるのでようやく満杯を理解できるようになります。人差し指が満杯を知らせるサインになったのです。</span><span>すなわち、「『満ち足りさせるべき何か』が満ち足りた」と認識するためにはそれを知るためのサインが必要なのです。</span><span></span></p><p><font size="3"><br><br></font></p><p><span>そのサインの役割を担っているのが<font color="#ff0000">幸福感</font><font color="#000000">なの</font>です。自分自身が望ましいと考えていた感動が得られた、感動を満ち足りさせることが出来た、という瞬間に<font color="#ff0000">幸福感</font>というアクションが働き、それを教えてくれるのです。これがいわゆる<font color="#ff0000">幸福</font><font color="#000000">なのです</font>。</span><span></span></p><p><font size="3"><br><br></font></p><p><span>反対に<font color="#0000ff">不幸</font>とは何なのでしょうか。これは幸福とは逆に、自分自身が望ましいと考えていた感動が得らなかった、感動を満ち足りさせることが出来なかったという時に起こるサインになります。やはり、状況が目では捉える事ができないそれを理解する為に、<font color="#0000ff">不幸感</font>としてサインが送られアクションが発動するのです。</span><span></span></p><p><font size="3"><br><br></font></p><p><span><font color="#ff0000">幸福</font>も<font color="#0000ff">不幸</font>も、所詮は<font color="#ff9900">感動</font>の満ち足り具合を知るための手段でしかないのです。そんな手段を手のひらに乗せて、どちらが望ましいかを考えるなんて何とも浅はかな行為だと感じてはこないでしょうか。</span><span></span></p><p></p><font size="3"><p><br></p><h2><font color="#ff9900">感動</font>のシステムの仕組み</h2></font></span><p>&nbsp;</p><span><p>これらの事から私の考察を簡単にまとめると、まず我々の母体は<strong><font color="#339966">無感動</font></strong>になります。その<strong><font color="#339966">無感動</font></strong>から<font color="#ff9900">感動</font>という外的刺激による心の衝動に向け、その目的に沿った<strong>欲求</strong>がそれを後押しする形で、行動を起こさせます。その感動がうまく得られれば<font color="#ff0000">幸福</font>というアクションが生まれ、得られなければ<font color="#0000ff">不幸</font>というアクションになります。そんな幸福も不幸もやがては<strong><u>飽和状態</u></strong>を迎え、フィードバックして共に<strong><font color="#339966">無感動</font></strong>へ戻ります。そしてまたそれを繰り返すのです。図で表すとこのようになります。</p><p>&nbsp;<img alt="人生の目的図解2.png" src="https://iwiz-chie.c.yimg.jp/im_siggWQpgiZetpJ8M9nR00sUMGg---exp5m-n1/d/iwiz-chie/note-170442-i3-________.png"></p><font size="3"><p><br><br></p></font><p><span>基本的に私は神様の存在は信じませんが、仮に感動を供給する為にこの世界を創造した創造主がいたとするならば、幸福</span><span><font>(</font></span><span>状態</span><span><font>)</font></span><span>から無感動にフィードバックするその間にその創造主へたびたび我々の感動が供給されていっているのだろうと考えられます。そうであるならば、我々は何の努力もすることなく人生の目的を自然に果たしていることになるでしょう。</span></p><p><span></span>&nbsp;</p><span><p>&nbsp;</p><!--?xml:namespace prefix = "o" /--><p>&nbsp;</p><h2><font color="#ff9900">感動</font>のシステムからの脱線</h2></span><p><font size="3"><br></font>&nbsp;</p><p><span>しかしながら、我々はほかの動物とは異なる生き方を求め、人間独自である「<strong>法律</strong>」「<strong>教育</strong>」「<strong>ルール</strong>」そして「<strong>お金</strong>」などの拘束によって脱線の道を歩むようになりました。それが逆に、善悪の概念を作り出し、元々の自由であった感動を固く縛り付け、目的の達成しにくい環境を作り出し、不幸</span><span><font>(</font></span><span>状態</span><span><font>)</font><font>側の流ればかりが何度もフィードバックされる、いわゆる仏教的な意味での四苦八苦・艱難辛苦に苦しめられるかたちになっていってしまったのです。</font></span></p><span><p><font size="3"><br><br></font></p><p><span>また、今の我々は「死」に対してとても悪いイメージを持っています。「死」はその先が見えないせいか無明であり、恐怖であり、またその死に様からグロテスク感をも感じる事があります。出来る事ならば「死」はなるべく人生の中では意識しないようにし、遠ざけたいと誰もが思っているはずでしょう。</span><span></span></p><p><font size="3"><br><br></font></p><p><span>ですが、感動のシステムから見れば<strong>「死」はとても便利な手段</strong>なのです。そもそも、創造主の意によってこの世界に全くの「無」状態で生まれた我々は、人生の目的に従って様々な<font color="#000000">感動</font>の為に積極的に動いてきました。そのピークは恐らく幼稚園~小学校低学年あたりでしょうか。その頃は手あたり次第に惹かれるものへ好奇心を湧き立たせ、母親が無理矢理連れて帰ろうものならば、大声で泣きわめいて駄々をこねて抵抗していました。近所のスーパーマーケットやおもちゃ屋さんなどでも普通に見かける光景ですよね。</span><span></span></p><p><font size="3"><br><br></font></p><p><span>ですが、成長するにつれて周りにある物事にそれほど関心を示さなくなります。幼い頃ほどの抵抗も消えていきます。物事に徐々に「飽き」を感じてきているということです。それが年齢を重ねれば益々加速化していきます。これでは、<font color="#000000">感動</font>を供給する創造主側の立場からすれば、かなり効率が悪い状態となってしまうでしょう。そこで我々には「死」が与えられているのです。「死」はこの世界に依存する中で蓄積した「飽き」を一度クリアにすることのできる最高の手段なのです。人間は、そんな「飽き」よりも記憶の方を重要視し、その継続を願う傾向がありますが、記憶というのは人間独特の知性に依存するものですので、やはり生命体差別になってしまいます。そして、蓄積しすぎた記憶は新鮮な感動を供給しなおすには邪魔になりやすいものでもあるのです。</span><span></span></p><p><font size="3"><br><br></font></p><p><span>本来であれば、自然界において生まれながらに動物同士の争いを目の当たりにする機会が多い為、今よりも遥かに命の尊さや死に対しての無明感・恐怖感・グロテスク性なども薄くなり、寿命も今より遥かに短かったでしょうが、かなり悠悠自適に生きられたかと思います。いつの日からか、人間が自らを幸福の為に生きていると錯覚してしまったことで、長寿を目指し、医療を発達させ、人間の意に背く動物に対しは銃刀を向け、隔離してきたことが後の我々を心の中から苦しめる引き金になってしまったのかもしれません。</span></p><p><span></span>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><span><p><br>&nbsp;</p><p class="attention">注意</p><ul><li>「死」をいくら肯定しようとも、人間や動物は敵に襲われれば逃げたり威嚇したりとそれを拒む行動を起こしている。「死」がそういうものである傍らで生命体は感動という目的を果たし続けるための<u>生存本能</u>が働き、「生きたい」という動物本来の願いと「死」における創造主側の求める感動のクリア化の、相反する者同士の交錯が常に行われているのだろう。創造主側からすれば自らの希望に傾くことなく生命体の意志を平等に尊重していることになる。</li></ul><p><br>&nbsp;</p></span><p>&nbsp;<br></p><p class="hint">ヒント</p><ul><li><span>Wikipedia「諸行無常」より"生滅の法は苦であるとされているが、生滅するから苦なのではない。生滅する存在であるにもかかわらず、それを常住なものであると観るから苦が生じるのである。この点を忘れてはならないとするのが仏教の基本的立場である。"とあるように、「死」を遠ざける事に慣れてしまった人間は生滅する存在である自身を常住なものと観てこれを苦に感じている。人間以外の生命体は常に「死」と隣りあわせであり、常住でないという見方が強いであろうから、人間ほどに苦ではないだろう。私自身、純粋な仏教ですら正しいとは思っていませんが。</span></li><li><span>やはり人間は一度、自然回帰すべきだろう。</span></li><li><span>―huumphatrsvaahaaさんのアドバイスから</span></li></ul><p><br></p><p><span></span>&nbsp;</p><span><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><h2>我々がすべきこと</h2><p><font size="3"><br><br></font></p><p><span>本来であれば、感動は受け身でしかありませんのでそれにただ身を任せているだけでよかったのでしょう。ですが前述のように、人間は<font color="#ff0000">幸福</font>ばかりを追い求め<font color="#ff9900">感動</font>を手に入れにくい環境をつくってしまったが為に<font color="#0000ff">不幸</font>が突出して見られる世界を再構築してしまいました。この状況を変えるのは実に難しい事です。一番は本来の意味としての自然回帰をし「死」に慣れていくこと。これを機に現代の<strong><em><font color="#999999">因習的人命過剰尊重主義</font></em></strong>の頭が消去されていけば、やがて本当の<strong>生命体平等</strong>の意味を理解できることになるでしょう。そうすれば、やがて世界から「(幸福を基幹に持つ)宗教」が消えそれによる戦争もなくなります。平和…というより、生命体本来の生き方を取り戻す事でしょう。</span><span></span></p><p><font size="3"><br><br></font></p><p><span>人間は偉くなったものです。家畜は今もなお人間の身勝手さによって無理矢理この世に生ませられ、無理矢理トサツさせられています。彼らこそ彼ら自身の人生の目的を知りたいことでしょう。それでいて人間は人間にばかり可能とされる「宗教」を勤しんで勉強をし、<strong>生命体差別</strong>には目もくれません。人間ばかりを特別扱いする神仏などあってたまるでしょうか。</span></p><p><span></span>&nbsp;</p><p><span>希望をこめて、福沢諭吉の言葉をもじったこの言葉を残します。</span></p><p><font size="3"><br><br></font></p><p><span>「創造主は、生命体の上に生命体を創らず。生命体の下に生命体を創らず。」</span><span></span></p><p><font size="3"><br><br></font></p><p><span>私のこの気持ちがより多くの人に伝わる事を願い、ここで筆を休みます。</span><span></span></p><p><font size="3"><br><br></font></p></span></span><p>&nbsp;&nbsp;</p><font><p>&nbsp;</p><p><font size="3"></font>&nbsp;</p></font><p></p></span><p></p><p>&nbsp;</p></span></span></span><p>&nbsp;</p>